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パリからの便り  HOME
ショート・ストーリー 1975年〜1988年
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上野万梨子 東京生まれ
1975年
飯田深雪クッキングスタジオでのスタージュを経て、パリに料理留学。

きっかけは、集英社「セゾン・ド・ノンノ」のパリ特集の中に、料理学校、ル・コルドン・ブルーの紹介記事を見つけて。
あの頃はシェフという言葉が日本では一般的ではなかったからか、記事中では先生シェフのことを「コック帽をかぶったオジサン」と。
カフェの朝ご飯については「クロワッサン(パンの一種)」などとカッコで但し書きもしてあります。
セゾン・ド・ノンノ
「セゾン・ド・ノンノ」創刊10月号
大特集「フランスの本」より
1976年
ル・コルドン・ブルーパリ校卒業、グラン・ディプロム取得。

写真は7区のアヴェニュー・サックスの朝市。このあと、オシャレにうるさい友人達に進言され、ある日入浴後に髪をすっぱりと自分でカットしておかっぱ頭に。しかし濡れている時には丁度よかったはずが、乾いてみたら前髪は異常に短くはねあがり、自前の日よけのよう。「切ったわよ」といって私が現れると皆絶句。以来ずっと今のこのヘアスタイルのまま。
サックスの朝市
1977年
料理教室授業風景
授業風景
東京、玉川田園調布の実家にて、フランス料理教室開講。

生徒数30名からスタート。第一回目のメニュー、タンポポは手に入らなかったのでシコレ(エンダイヴ)で作ったシャンプノワーズ風 サラダ、フォン・ド・ヴォーから教えた牛肉のブルゴーニュ風赤ワイン煮、くり抜いた皮に詰めたパイナップルのアイスクリーム。

教室をはじめると「若すぎる料理の先生」ということで話題にしていただき、婦人雑誌の料理ページでの仕事がはじまる。
初めての撮影で写真を撮って下さったのは料理写真界の大御所、佐伯義勝先生。とても緊張しましたが、恵まれたスタートでした。
1978年 長男誕生後翌月より「婦人画報」で初めての連載「DESSERT」がはじまる。カメラは安藤紀夫さん。

出産のために数ヶ月間休んだ後、教室名をLA NOUVELLE IMAGE (ラ・ヌーヴェル・イマージュ)としてあらためてスタート。休校時は80名だった在校生が友人知人を誘って、再開時には130名になって戻ってきてくれました。とても励みになりました。再会の日、ソファーの上で手足をばたつかせている息子を見てある生徒さんが尋ねました。「まぁ可愛いこと!先生、こちらの赤ちゃんはどなたのお子さんですか?」「あ、私の子です」「は?」・・・と間髪入れずに「さぁ皆さんお久しぶり、今日のメニューは・・・・」。皆呆然としてしばらくはレシピに書き込みもできなかったのだそうです。7ヶ月近くまで講義していたのに・・・。
1979年 文化出版局から声をかけていただき、初めての著書の撮影が始まる。

留学時代から本を出すならここでと憧れていた出版社を、思いがけずにもご紹介下さったのは家事評論家の西川勢津子先生。先生のご友人のそのまたご友人が母の女学校時代の同級生で、私の教室にいらしていたことからのご縁でした。
1980年
1年以上かけて取り組んだ「シンプルフランス料理」出版。

カメラは増淵達夫さん。「料理は撮らない」といいながらも担当編集者の説得によって引き受けて下さった彼の希望もあって、料理写真の多くは箱根、那須、浜名湖等のロケ地で撮影。箱根の坂を曲がる度にワゴン車に詰め込んだ機材や料理素材が右へ左へとザザザ、ザザザ。詰め込まれたスタッフも一緒にザザザ。出来上がった本は右開きの縦書きで、料理点数は160品も。巻末の著者紹介に私の住所が記載されるような、まだまだのどかな時代でした。

シンプルフランス料理
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それから怒濤のような80年代。
テレビに出演しても、当時の料理家としては何しろ若すぎ、お愛想も言えず、チャッチャと作って説明して、ハイおしまいの変な先生でした。

以後再渡仏までのことは、いろいろありすぎて省略するしかありません。
1988年 3年後にフランスに移住することを決める。

何故3年後であったかというと、在校生が上級クラスを卒業するまでに3年かかるから。
何故移住することにしたかについては、これもまたいろいろありすぎて、省略するしかありません。

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